東京高等裁判所 昭和62年(ネ)1218号 判決
1 本件食堂、ひいてはその食器返却口、本件転倒場所を含む前示通路部分等が、国家賠償法第二条第一項の公の営造物に該当することについては、当事者間に争いがないし、これを肯定すべきことはいうまでもない。
2 控訴人は種々の観点から、被控訴人国のこの設置管理に瑕疵があったと主張するのであるが、それは要するに本件転倒場所が転倒事故を起こす相当の危険のあったことを前提とするものである。しかしながら、まず、残汁等がこぼれていないときに本件人造石がそれ自体として滑りやすく危険な床材であるといえないことはもちろんである(かような証拠はない)。次に、残汁等がこぼれているときを考えるに、これがかなり滑りやすくなることは経験上明らかであり、通常人が誰しも知っているところというべきである(控訴人については、後記のとおり)。しかし、これが人造石特有のものではないこと、換言すれば他の多くの床材にあっても残汁等がこぼれているときには、一般的にかなり滑りやすくなるものであり、このことも通常人が日常経験するところである(前掲各証拠、原本の存在及び成立に争いのない甲第一〇ないし第一五号証、乙第一〇号証の一及び乙第一一ないし第一五号証、弁論の全趣旨により成立を認める乙第一〇号証の二並びに弁論の全趣旨によっても、明らかに認められるところであり、これに反する証拠はない。)。そして、人造石ないしテラゾーが官公庁の玄関、廊下等にかなり広く使用されていること及びその理由は前示のとおりであるところ、それが床材として危険であり使用すべきものでないと認めるに足りる的確な証拠はなく、これが床材として使用されていたが故に問題とすべき転倒事故が発生したことを認めるべき証拠もない。現に、前示のように、本件転倒場所ないしその付近においては、三〇年以上格別の転倒事故が起きていないのである。
3 翻って、普通の健康な成人が廊下で転倒するときを想定すると、通常、走っていたとか、廊下に穴や段差があったとか、障害となる何か別の物があったとかなどという、不運な事情が加わっているはずであるが、そのような別の事情が加われば転倒の可能性があるというだけでその廊下が危険であるということはできない。これを本件転倒場所について見るに、本件事故当時その付近に何か別の危険物のあったことは証拠上全く認めることができない(前掲控訴本人の供述にある控訴人が頭を打ったという箸捨て用の容器をもって、右にいう危険物と見ることは困難である。)。なお、本件転倒場所付近に穴が空いていたなど、他の事情いかんにかかわらず危険であったということは、主張も立証もない。
控訴人の主張は、要するに、前記一2末尾の認定事実にある酢豚の残汁や茶のようなものがこぼれていてこれに足を取られたというのである(前掲控訴本人の供述によっても、そのように認められないでもないという程度の心証が形成されるにすぎず、転倒に至る機序ないし事実経過は全く明らかでない。)が、前示のとおり本件人造石は本件食堂の中にあるのであって、もとより本件食堂は食堂であるから、少なくとも一〇〇〇食以上を提供して混雑を極める昼食時に、何かの拍子に床に残汁等がこぼれることがあり、このとき本件人造石の上だけでなく楢材の上であっても滑りやすくなりうることは自明の理といえるから、通常人の誰しもがこれを当然に予想し対処すべき場所であったといえる。しかも、本件食堂は、例えば幼児などが利用する食堂ではなく、限定された公務員だけが日常的に利用する食堂にほかならないのであって、利用者の事理弁識能力・事故回避能力が一般的に高いところ、一方、もともと本件食堂における転倒の危険性の程度が右のように極めて低いことをも考慮すれば、本件食堂の設置管理に携わる者としては、このような日常的利用者(控訴人もこれに属する。)は当然に右のことに留意して自ら転倒等の事故を免れるものと期待することが許される。利用者が通常の注意を払えば、未然に事故を避けることができるからである。この点につき、前掲控訴本人は、本件事故時まで二〇年来本件食堂を利用していたが、本件食堂の床が汚れていたこと、これにより滑りやすくなることのあったことを全然経験聞知しておらず、自分の家の廊下や座敷を歩くのと同様の信頼を寄せていた旨供述する。しかしながら、本件食堂において従前転倒事故がなかったことに徴して、本件食堂ないし人造石が特別に危険なわけではないとした控訴人の判断は容易に首肯することができる(当裁判所の判断と合致する。)が、前示のような規模と昼食時に混み合うという利用形態からして、控訴人が本件食堂の食器返却口の前に残汁等がこぼれて滑りやすくなることを全然知らなかったというのは、控訴人の前示年齢、学歴、職業等に徴してにわかに信じ難いところであり、万一仮に本件事故の際控訴人が本件転倒場所を自宅の廊下や座敷のようなつもりで歩いていたとすれば、前認定のようなタイトスカートやサンダルを着用していたことをも勘案すると、本件事故は専ら控訴人の不注意によって生じたものでないかと強く疑われるものである。
4 その上で控訴人が具体的な設置管理義務として主張する請求原因2(一)(3)の<1>ないし<4>について見るに、既に論じたことと重複するのであるが、<1>の麺類に盆を使うべきこと、<2>のカウンターから食器や残汁等がこぼれないような設備を設けるべきことについては、元来本件事故の際本件転倒場所にこぼれていた残汁等が右<1>及び<2>の不備によって生じたのか、単に不心得な利用客の不注意によって生じたのか証拠上全く不明であり、本件事故との因果関係が認められないというべきである(なお、このような利用客の不注意がある限り、カウンターから食器が落ちることや残汁等が床にこぼれることを完全に防ぐことは不可能であるから、結局他の利用者において常にその可能性のあることを考慮して自らこれに対処するほかないのである。)。次に<3>の敷物については、本件食堂において長らく転倒事故がなかったこと、その利用者が職員に限定されていたことなど前示の諸事情に徴して、そのような敷物を置かなかったことをもって食堂の瑕疵ということはできない(これを肯定するためには、敷物につまずく危険や残汁等がこぼれたときの対処の容易性などとの比較衡量をも要するが、更に論ずるまでもない。)。最後に<4>の人的物的整備については、本件事故の際これを欠いていたと認めるに足りる証拠はない(注意喚起の点については、そもそも控訴人が転倒するどれほど前からその残汁等がこぼれていたのか証拠上全く不明であるから、それが通常期待しうる時間を超えて遅れたものといえるかどうかを的確に判断することができないし、むしろ、前示の黒柳の行動によればこぼれてから数分内に清掃している(控訴本人の誇張した供述によっても「八分間程度の放置」にとどまる。)のであるから、右<3>と同じ事情に徴して、このような短時間格別の注意喚起がなかったことをもって、管理上の瑕疵があったということはできないというべきである。)。
5 以上要するに、本件転倒場所に残汁等がこぼれることがありそれによって同所が滑りやすくなることがあったにしても、本件食堂が職員食堂であること、従前転倒事故がなかったこと等の前記諸事情、加えて、前掲各証拠上、転倒によって重大な結果が生じることは容易に予想し得なかったといえることからして、本件事故との関係において本件食堂が通常備えるべき安全性を欠いており、その設置管理に瑕疵があったと認めることは、到底困難である。
(賀集 安國 伊藤)